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小学校高学年

 日本に来てからは、青天の霹靂のごとく、生活が何もかも一変しました!日本語をまず、勉強しなくてはいけなくなり、半年間ほど日本語学級(小学校の校長先生のご配慮により、非常勤の日本語教師を学校に配置してくれたおかげで、数学の授業以外は、同級生のクラスメートが授業を受けている間、私だけその学級)に通い、日本語を習いました。

 小学校6年生になると、普通学級で勉強をさせられました(私の個人的希望もあって、そのようになったような気がします(^^;)。理数系は得意でしたが、国語の授業などは微妙なニュアンスはつかめず、いつもわかったようなわからないような感じで授業を受けていたのを覚えています。歴史もそれまでの蓄積がありませんでしたので、よくわかりませんでした(^^;)

 成人して後、母がとってあった新聞を偶然見つけ、何気なく見ていたら、日本に帰国して半年ほどたった頃の私の作文が載っているではありませんか・・・作文を書いたことすら覚えていなくて・・・ましてや内容も・・・読んでみると、これを本当に小学生の私が書いたの(?)みたいな硬い文章で、自分の考えや将来の夢などを書いていました・・・我ながら、大人びた子供だなぁと妙に感心してしまいました。

 日本に来てからは、天真爛漫な部分が影を潜め、どこか冷めたような目で、周りや社会を眺めるようになりました。本音と建て前の使い分けができなくて・・今でも苦手ですが(^^; 当時の小学生の私には、なんでそんなものが必要かがわからなくて・・・子供も大人も妙にずるく、不誠実な人たちに思えてなりませんでした!

 いじめがあったり、仲間はずれがあったり、先生の気分次第で八つ当たりされたり・・・小学生なのに、複雑な社会だなと思いました・・・ 
2018年02月01日 02:00

幼少期から小学校5年生まで

    出産の時、母を3日間苦しめていた私ですが、その後はすこぶる良い子だったようです。まったく夜泣きをせず、半年で断乳をしてからは、自分一人で静かに寝るようになり、一歳までには、一通りの言葉をしゃべり(母が言うには、家では親としゃべるが、外では黙って自分で遊んでいたと)、自分のことは自分でやるようになり(自分で着替えたりなどということのようです)、母には「あなたは1歳にして自立していた」とよく言われました!!

 子供のころは、好奇心旺盛で、とにかく外で遊ぶのが大好きなおてんば娘でした。中国で生活していた時、何不自由ない生活だったし、私の人生の中でもかなり幸福感に満ちた時期だったように記憶しています・・・夏休みはいつも祖母の家に遊びに行っては、裏庭に植わっている野菜や果物を当たり前のように食べていました(今思えば、農薬を使用せずに栽培した自然な味を体が覚えているせいで、日本に来てからは、野菜や果物を食べても野菜や果物の味があまりしないことにびっくりし、長い間、不思議に思っていました。後に、その原因がわかりましたが・・・子供だったから、仕方がありませんね(^^;)

 私たち一家は、まさにバブルの真っ盛りのある夏の終わりに祖母と一緒に日本に来ました。当時、私は小学5年生でしたが、日本語は当然わからないし、生活習慣の違いなどから最初は大きなストレスを感じていたように思います(^^;)

 それまでは、祖母が日本人であることは知っていましたが、自分が日本にいくなんて考えたこともありませんでした・・・祖母が病気がちになり、自分の寿命が長くないことを悟ったのか、亡くなったら日本の土に帰りたいとの思いが強かったため、日本帰国を進めていたようです。そこに私たち一家も計画に加わっていました。私は、日本へ渡航する1か月前に、知らされたような気がします・・・友達との別れなども子供の私にはピンときませんでした。それまで何も考えずに呑気に暮らしていたからでしょう(^^;
 
2018年02月01日 01:00

生まれ

 私は、旧満州の中国遼寧省に生まれました。その直接的な縁を作ったのは?、母方の祖母でした。

 日本人である祖母は、実家が裕福であったにもかかわらず、家族の反対を押し切って、何故か日中戦争開始半年前に友人と二人で中国に渡ってしまいました。御年17-18才だったらしいです(^^; 祖母はかなり変わり者だったことを後年知ることになりますが・・・

 中国に渡った祖母は、移動中乗っていた列車が爆破されてしまい、生き残ったのは祖母一人だったと後年聞かされました(ご友人もその時に亡くなり、一人ぼっちになってしまったようです)。偶然、死体を検視する作業に刈りだされた、中国人男性(後に祖父となる方)に、虫の息であるところを発見され、死体の山の中から救いだされ、小屋の中に匿われ、懸命に看病をしてもらったおかげか、祖母は半年かかって、ようやく回復したとのことです(この間、マラリアにもかかったが、それも何とか乗り切ったとのことでした・・・これも後に判明したことですが、祖母は鎌状赤血球をもっていたおかげでマラリアにかかっても命を落とさずに済んだようです(アフリカの人は、マラリアにかかってもなくならないのは、多くの人が鎌状赤血球をもっているからです)。

 元気になった祖母に、すぐに日本に帰るように未来の祖父が諭しましたが・・・これまたどうしたことか、祖母は村一番のイケ面である命の恩人である祖父に一目ぼれしてしまい、日本に還らずにあなたと結婚すると言ったそうです。17-18歳の祖母は中国語などわかりようもなかったし・・・これから敵国同士になるというのに、すごい勇気だなと・・・

 そういうわけで、祖母と祖父の間に、一年後に母が生まれました・・・不幸なことに、母が生まれて半年後に祖父は戦争で帰らぬ人となりました。

 祖母は生きていくため、二番目の夫となる方と再婚し、母は祖父母のもとで育てられました。

 祖母と祖父との間に、交わされた約束があったことは後に母から聞かされました!祖父は、祖母に「戦争が終わったら、あなたの国(日本)に行ってみたいし、二人の間の子供は何があっても必ず連れて行ってほしい」と言われたそうです・・・この約束は、祖母が私たち一家を連れて、日本に帰国したときに果たされたようです・・・

 ドラマチックな祖母のドラマのお陰で、母が生まれ、中国人の父と出会い、その間に私が生まれたわけです(^^;)めでたしめでたしと言いたいところですが・・・出産の時、なんと私は三日間も出てこなくて母を苦しめたようです(^^; なのに、生まれてくると、これでもかと言わんばかりに両目から大粒の涙を流していたそうです(母は産婦人科の先生に、他の子どもはウソ泣きをして、涙を流さないのに、この子は本当に泣いているわね・・・珍しいわねと言われたそうです(^^;私もよっぽど苦しかったのか、それともこの世に出てきたことに対して本当に涙を流していたのかは定かではないが・・・

 何はともあれ、無事にこの世に生まれてきました(^^;
2018年02月01日 00:00